Shinjuku Night #001 〜裏でも表でもない新宿徘徊録〜


深夜から雨の予報があった火曜日、新宿の夜に戻ってきた。


二十代から三十代前半まで、新宿は自分の遊び場だった。先輩や、飲み屋で出会った人に誘われて、夜の新宿を歩いた。さっきまで隣にいた人がいつのまにか消えて、気づけば独りになっても、新宿では夜を続けることができた。


早稲田に住んでいると、近場の繁華街に行くとなれば、新宿派と池袋派に分かれる。学生のころから自分はずっと新宿派で、スカウト通りのゲームセンター「キャロット」や、歌舞伎町の「ゲームファンタジア(現アドアーズ)」などで放課後の時間を過ごしたりした。ごくたまに垣間見える危険な雰囲気も、少し背伸びした気になって居心地がよかった。そのまま古本屋になり、さらに新宿の深い時間と付き合うようになったのであった。
その後、雑司が谷を拠点にしたころから新宿より池袋を利用することが多くなった。いつのまにか新宿は遠くなった。池袋のほうが近くなったから、というのは言い訳で、どこか若き頃からの新宿に疲れたのかもしれなかった。


昨年、2013年の桜が咲く少し前に心を病んだ。日常ではなんともない生活を送っていたが、寝る前などの静寂な中で独りになると身体に異常を感じるようになった。状態に波があって、いい時も悪い時もあった。今年になって、波がなくなった。睡眠薬も処方されたが、効かない時も多々あり、外出できなくなったまま効かなくて眠れないことを恐怖に感じるという悪循環が生まれた。自然と夜中に外出して、眠くなるまで高田馬場にあるチェーン店などでぼんやりすることが増えた。飲みすぎは眠れたとしてもあまりいい方法ではないと先生に言われたので、チビチビと飲んで時間をつぶしていた。


ある日、用事があって渋谷へ行った帰り、空いた副都心線に乗りながらウトウトしていてドアが開いた瞬間に間違えて降りてしまった。そこは東新宿駅だった。そのまま次の電車を待っていたのだが、妙に息苦しくなって、もう歩いて帰ろうと地上に出た。かつて見慣れた、殺風景な東新宿明治通り。交差点の信号が青に変わると、ふと風が香ばしい匂いを運んできた。
「幸永の匂いか。懐かしい」
かつてもふらり歩いて新宿に行くときは、明治通りから職安通りを右折、もうもうと煙を吐いている焼肉店《幸永》の匂いをかぎながら稲荷鬼王神社を曲がって区役所通りに入る。その先には行きつけのバー《コネジ》がある。変な名前だがこれは「小ネジ」のことで「小さくとも大事な存在」ということで名づけたそうだ。「ビス」にしようかと思ったが、気取った感じが嫌で《コネジ》としたという。もう何年来ていないだろうか。気づけば自分は《コネジ》の入るビルの前に立っていた。
 この店には二十代の頃、世話になっていた友人の先輩に連れてきてもらった。看板を出していないので常連ばかり。しかも妙に安い金額設定で、退屈をまぎらわせるには最高の場所だった。


それでも、この店に入るのには抵抗があった。《コネジ》を中心に考えると、自分は新宿を見捨てて出て行った、という気がしていたからである。大きな木製のドアの前で、あれこれ考えながら数分が経っていた。緊張状態で、いつもの不調が体に訪れる気配もした。無意識的にドアを開け、聞き覚えのあるドアのぎくしゃくした音の先に、マスターと目が合った。
「いらっしゃい」
あまりにも普通の対応だったので、なんとなく挨拶しそびれてそのままカウンターに座った。「コネジ」はカウンター7席、テーブル2席の小さな店だ。
「いつものでいい?」「はい」
昨日も来たかのようにジントニックが出てきた。
「久しぶりだねー」
レナちゃんが声をかけてきた。今も続けているのかどうかはまだ知らないが、レナちゃんは当時、人気のキャバクラ嬢だった。今日も隣にいるジンさんがレナちゃんの店の常連で連れて歩いていた。ジンさんはまったく下心を見せず、レナちゃんにいろんな世界を見せて歩いているようだった。レナちゃんも、もう三十を超えているだろうがあまり印象は変わっていない。ジンさんはなんか老けたなぁ。自分とも五歳ぐらいしか違わないと思うのだが。逆側に座るミキさん(男性である)は相変わらず無愛想だ。たまに会話に入ってくるのだが、基本は独り壁を作っている。ちょっと怖い感じの雰囲気で、普通の仕事をしている感じはしないが、実のところ何も知らない。軽く会釈をした。


マスターはどうでもいい会話だけしているし、レナちゃんもその後はジンさんと昔の伊勢丹についての会話で忙しいらしく、自分は独りでピーナツをつまみながら飲んでいた。ものすごく遠くないけど近くもない距離感。あの頃は、今の自分が身を置いているような、何もない「間」を良しとできなかった。確かな、人の存在だけを求めていた。場所と会話ができなかった。なんとなく人の会話を聞いているような、聞いていないような感じで飲み続けた。


あっ、と思ったが、気づくと自分はカウンターに突っ伏して寝ていた。不眠で苦しんでいたここ最近、久しぶりにすんなりと寝た気がする。カウンターは、マスターと自分だけになっていた。マスターがすっとグラスに氷を入れて、水を注いで出してくれた。
「向井君、おかえりなさい」
まわりの微弱な光が、キラキラと輪郭を失った。数センチ開いたドアから、降り始めた雨の音が入ってきた。
自分は新宿に帰ってきた。