Shinjuku Night #003 〜裏でも表でもない新宿徘徊録〜


昨日お客様から買ってきた本の整理が終わらず、10時過ぎまで残業していた。気持ちが不安定になってから、シャッターを閉めた店内での作業がたまに苦しく、ちょっとした拍子に仕事ができなくなることが増えた。そのような状態になってから自宅に帰ってもいいことは無いので、どんなに遅くとも気をまぎらせに新宿に出る。そんなことで救われる日も多くなった。


深い時間から出る時は、最初からバー《コネジ》に行く。雨予報があった平日だからだろうか、今夜の区役所通りは人通りが少ない。キャッチの兄さん達も今日はどこかダランとしているように見える。風林会館前の浮ついた空気を、周りの人間が受けきれていないようだった。《コネジ》の入っているビル前にいつもいる、細身で金髪のキャッチの兄さんに「おはよう」と挨拶してエレベーターに乗った。業界っぽくて嫌だったのだが、彼が会うたびに「おはよーす」と言ってくれるので、いつのまにかこちらから言うようになった。とはいえ、自分が言うようになると、開店時に店の鍵を開けるような感じのアクセントになる感覚があって、いい感じでこれから訪れる飲む時間へと気持ちが切り替わるのだった。


今日はカウンターにユウキさんが一人だけ座っていた。元ホストというような風貌だが、常連のムラキさんによれば銀行員なのだという。でも、ムラキさんは「冗談が服を着ている人」という方なので真実はわからない。
「マスター、なんか食いものあります?」
「えっ、無いよー。いつも言ってるじゃん、食いたかったら自由に持ち込みしてってさぁ。さっき塩田屋さんで買ったこれならあるけど」
マスターはやたらでかい袋に入った業務用の柿ピーを見せる。
「いや、そういうことじゃなくて……」
「コンビニか赤札堂で買ってきなよ、そうしなよ」
どちらにしても今日は一杯飲んでから夜散歩をするつもりだった。何も考えずに真夜中の新宿を歩く、ただそれだけのことをたまにする。その時に新しい発見があることもあるし、ただ疲れるだけで何もないこともある。普段、仕事では絶対に会わないような人とすれ違う。「新宿浴」と言おうか、そういう無駄を歩く。それまで食事は我慢することにした。
「向井君、メシ行くの? 俺も一緒に行ってもいい?」
ユウキさんがのってきた。
「いや、街なかを独り歩きするんすよ、一時間ぐらい。そのあとだったらいいすけど」
「なんだよそれ、めんどくせーなー。じゃあ一時間後に待ち合わせよう。どこ行くの?」
「今日は二丁目かなぁ」
「へー、俺行ったことないんだよ、あっち。面白いじゃん。どこ行きゃいい?」
「じゃ、一時間後に靖国通り新宿二丁目北の信号で。仲通りの入口側。わからなかったらマスターに聞いてくださいよ」
伊勢丹の裏道を抜け、新宿通りに出てから明治通りを渡った。


新宿駅側から明治通りを超えると、街はどこか年齢を重ねたように光の加減が薄くなる。歌舞伎町からもそれほど離れているわけでもないのに、居心地のいい光が道に落ちている。週末の二丁目は人であふれていて、メインストリート仲通りにあるadvocates cafeなどは外国人で店と道路の区別がつかないぐらいの祭り状態が発生しているわけだが、平日の夜は静かなものだ。裏路地の、変った面白い店名の看板を観たりしながら歩く。駐車場の向こう側にゴールデン街的なたたずまいの一角である新千鳥街が見える。ゲイバーに囲まれた《八丈島居酒屋 こっこめ》の店内で楽しそうな会話がされている風景があった。いつも前を通るたびに気になっているのだが、入口がベニヤ板で封鎖されているようにしか見えないが、中の電気がちゃんとついている《鳥園》という居酒屋、やっているのだろうか。思い出横丁の《鳥園》とは真逆の入りづらさである。いまだ入る勇気が無い。今日はあっというまに一時間が経ってしまった。あわてて待ち合わせ場所に向かう。


「なんかイメージと違ったわー。ゴールデン街みたいなのかと思ってた」
よくある感想である。ユウキさん、さすがというかなんというか、なんの躊躇もなくゲイ雑誌やグッズを売っているショップにも入っていき「楽しーなー」なんて話している。本当は《居酒屋 金太郎》でガッツリ食いたかったが、もう閉店時間だ。抜け道の細い路地にある《呑喰屋すぱいす。》に行くことにした。緑の暖簾が目印のカウンターメインの居酒屋で、おいしい魚を食べさせてくれる。刺身と煮込みを注文した。今日も隣は優しそうなガッチリ体型のゲイの方二人、テーブルにはサラリーマンが三人。新宿二丁目というとゲイバーのイメージが強いのだが、いいお店もたくさんある。お客さんも、いろんな人たちが雑然としていて、雰囲気が愉快だし、空気が心地いい。だから自分は二丁目に来る。


レモンサワーでおいしい目鯛の刺身とさっぱりしながらコクのある煮込みを堪能していたのだが、ユウキさんはピザとかドリアとかを頼みだす。どれもおいしいのだが、この時間だと重いなぁ。しかもユウキさんはいつの間にか隣のおネエさまと親しく話し出し、まったく料理に手をつけない。いつしか一人飲みのようになって酒が進む。「しらすピザ」が出てきた。ユウキさんのくだらない会話を心をオフにしながら聞いていたら、6つ切りのピザを5つ食べてしまった。しらんぷりしてドリアの上にひとつ乗せてユウキさんの前に置いておいた。


「いやー、よかった! もうマスターにあいつ転向したからこっち来ません言っといて」
「やめてくださいよ、もう」
酔い覚ましに少し歩いていたらユウキさんが急に「そうだ。雑誌でしか見たことないからさ、あそこ連れてってよ、なんか上にUFOみたいなのが乗っかってる緑色の変なビル」と言いだした。聞いたときはなんのことだかわからなかったが、しばらくして、あぁそうか、と思い出す。記憶の底の方に沈んでいたのだった。
「ラシントンパレスすか。自分も最近まで知らなかったんすけど、もう無いですよ。違うビルになってて」
ラシントンパレスはかつての二丁目のランドマーク的存在で、今もある同人誌販売などでおなじみの模索舎さんのそばにあった。かつては回転式の展望レストランだった部分がユウキさんの言う「UFO」に見えて、後に「スカイジム」という有料のハッテン場になった(「アド街」にとりあげられたことがあったのでは)。また、五木寛之が編集長をつとめた「交通ジャーナル」の編集部が入っていたビルは、この建物が建つ前に同地にあったと以前どこかの飲み屋で聞いたことがある。ホテルだった時期もあるそうだが、自分がフラフラしていたころは雑居ビルだったと思う。ずいぶん前だが、そのころは一階にあった《餃子の王将》にしか行かなかったので、詳しいことはよく知らない。
「跡地見に行こうよ。遠くないんだろ」
ユウキさんに急かされ新宿通り方面に歩く。数分で到着したが、そこには今風のガラス張りで、一階にファミマが入っているなんの変哲もないビルがあるだけだった。感慨などあるはずもなく、ぼんやりと見上げていると、新宿御苑前駅のほうから「先輩〜」と、あきらかに年上の、五十前後の男性が酔っぱらって声をかけてきた。
新宿駅はどちらでしょうかー」
新宿駅か。ここをまっすぐ! あの光に向かってまっすぐすすむんだ! ヨーソロー!!」
ユウキさんが、いつものようにふざけて答えた。
「ありがとう! ヨーソロねぇ」
男性はふらふらと駅のほう、目の前の世界堂の看板のほうへ歩き出す。
「まっすぐだぞー! ヨーソロ、ヨーーソローー!」
完全に酔っているユウキさんは大笑いしながら何度も何度も叫ぶ。自分はただぼんやりと見送る。駅方向の光は、夜が深まったせいかそれほどきらびやかではなかった。再開発中の新宿にそびえ立つ大きなクレーンの先に、ポツリと点滅する赤い星が見えた。それだけがただはっきりと、ぼんやりとした街灯の向こう側の存在を照らしている。自分は歩きださず、ただその星をずっと見ていた。少し視線を落とすと、酔ってもう他人を感じなくなったのであろう、フラフラとユウキさんはすでに50メートルほど先を歩いていた。彼が発する、なんだかよくわからない叫び声が車の音に飲みこまれて、今日も自分だけの夜が始まった。

◆新宿2丁目ナビ
http://www.shinjuku-2.com/
八丈島居酒屋こっこめ(食べログ=このあと新宿三丁目に移転しました)
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13059305/
◆居酒屋金太郎(食べログ
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13045924/
◆呑喰屋すぱいす。(食べログ
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130402/13129195/
◆ラシントンパレス(裏新宿NEWS)
http://news.urashinjuku.com/archives/51749274.html