Shinjuku Night〜裏でも表でもない新宿徘徊録〜 #017


 まずい酒だった。酒の品質とか雰囲気がどうこうではないようだった。飲んではいけない酒を久しぶりに飲んだ。
歌舞伎町・オスローバッティングセンターすぐ近くの雑居ビル。一階エントランスだけが大理石仕様で豪華なのだが、その他はネズミの巣のようなビル。その3階にある韓国人のママがやっている店名は書けないバーに来ている。いつ買ったのかわからないくすんだ熊手が落ちかかっている。バーというよりは社員食堂のような緩んだ雰囲気。ここは《コネジ》のビッグボスであるミキさんの友人(元、とつけなくてはならないのだが)であるミツガメさん(通称・ガメさん)が贔屓にしている店で、なぜなのかはわからないが来るたびに入口の看板の上に色画用紙に汚い字で書いた店名が変わっているという、実に変な店らしい。自分がガメさんに会うのが久しぶりなのにはわけがあり、つまり先日、《コネジ》のマスターに聞いたところでは、自分が新宿にいなかった時期にガメさんとミキさんは仕事上のトラブルで絶縁したらしい。ガメさんは《コネジ》を離れた。正直に言えば自分はどちらかといえばガメさん派だったし、昔はよく飲みに行っていた。《コネジ》に戻ってからはミキさんしかいなかったし、少し話に出した時にはめんどくさそうに「さぁな」と言っていたから何もなかったことにしてきた。自分もそうだったように、いつの間にかいなくなる人の方が多いのだからいちいち気にしないのが正解なのである。


少し前の小雨降る平日の夜、《コネジ》で腹減ったーと大騒ぎしていたレナ、カナのガールズバーコンビに連れられて久しぶりに、もつ焼きの《カミヤ》に来た。腹いっぱい食べて《コネジ》に戻ろうと花道通りの方へ歩き出すと後ろの方でレナが「わぁー」と甲高い声をあげた。グッドフェローズみたいなたたずまいの男性は記憶の中の姿とまったくぶれておらず、レナちゃんとほぼ同時に「ガメさーん!」と変な声をあげてしまった。面識のないカナは大きな音を聞いた猫みたいに目を丸くしている。
「うゎー久しぶりだね、ガメさん。ちょっとだけおじさんぽくなった、かな」
レナちゃんのジャブを軽く鼻で笑い、自分に寄ってきたガメさんに腹に軽くパンチをくらった。
「ヨシノに聞いてたよ。なんか……」
懐かしいんだけど、お互いになにを話していいかわからなかった。つい話題をそらす。
「この子、レナちゃんの後輩のカナです。同じ店で働いてて」
カナはなんだかおかしいぐらいにぎこちなく「カナですぅ」と八の字眉毛でいつもとは真逆の小さな声で挨拶した。
「まだあそこ行ってんのか?」
「だから三人で来てるんでしょ!」
さっき言葉をすかされて気分を害したらしいレナちゃんが吐き捨てるように答えた。さらにそれをめんどくさそうに払いのけるかのようにガメさんが続ける。
「じゃあな。また静かなときに」
久しぶりの空気も乾いたまま。レナちゃんはゴリラみたいな仕草でガメさんの後ろ姿にアッカンベーをしている。そのまま《コネジ》に戻ったが、誰もその時の話はしなかった。


今日もウーロン茶を飲んでいる。あまり人には言いたくなかったが数週間前にドクターストップがかかった。酒を一滴も飲んでいないのに、カウンターで眠ることが増えた。不眠という隙間を埋めるという気持ちで新宿に戻ってきた自分の中心が壊れかけている。そんな風に最近思うようになった。最初のうちはマスターも飲めない自分を茶化していたが、自然と誰も触れなくなった。それもまた少し息苦しかった。
また眠たくなる。それでも家に帰るのはなぜか自分は良しとしなかった。以前とは違い、帰るとすべてが無くなってしまう気がした。カナがウーロン茶を足してくれた。最近、気を使ってかレナもカナも優しい。今日も、自分は独り帰らず居座っている。マスターは後ろを向いてスマホのゲームをしている。微かに聞こえる時計の秒針の音を、待ったり追いかけたりする。


数日後の夜九時ごろ、《かめや》で蕎麦を食ってから思い出横丁の入口あたりを歩いていると登録されていない番号から着信があった。
「はい」
「あっ、ミツガメだけど……」
「ガメさん?」
「ヨシノに番号聞いてさ。お前、ジュクにいる?」
「いますよ、大ガードんとこす」
「ちょっと、来ないか? おごるから」
オスローバッティングセンター近く、ということとビル名と階数と店名だけという雑な案内を受け、歌舞伎町へ向かった。東宝ビルの裏の道を花道通りというのであるが、この通りを新宿駅側から超えるとそこが歌舞伎町二丁目。雑居ビルとラブホテルの街。景気のいい音が聞こえてくるバッティングセンターの周辺をふらふら歩いて、ビルを探す。すぐに見つかったのだが、外の店名看板に聞いた店名が無い。とりあえずエレベーターで指定された階へ行ってみるとあの張り紙で変えられた店名が書かれていたというわけだ。ぎこちない扉を開けると、客はガメさんだけ。「おう」と軽く挨拶され、黒い布テープで修繕された茶色い合成皮の椅子に座る。
「いま、酒やめてるんすよ」
「えっ、いまさらどしたよ(笑)」
「ちょっとつまんないことあって」
「まぁいいじゃん、久しぶりの一杯だけな。ママ、薄くして」
薄めと言いつつ、ずいぶんと琥珀色の濃い水割りが出てきた。軽く舐めてみる。まずく感じる。だから、飲んだ。まずくて飲めない自分を認めたくなかったのだろう。実につまらない理由でつっぱる。
「どうしてたんだ」
「普通に仕事してましたよ。自分の。雑司が谷のほうとかで古本市やったり、いろいろしてたんすよ。だから気分的に新宿は遠くて」
「ふーん。そっちは全然知らないもんなぁ。景気いいの?」
「全然(笑)」
「ガメさんは?」
「変わらない。相変わらず説明しづらい、我ながらうさんくさい仕事やってるよ。この年で変れるかよ」
気づいたらグラスを飲み干していた。無言で再びグラスが出てくる。次の会話のつなぎ方がわからなくて、ついわかっていることを聞いてしまう。
「コネジには、来ないんすか?」
「そうだな」
ガメさんの前にもグラスが出される。怒られるかな、とも思っていたけど、空気は平らなままだった。
「あそこは、賑やかだかんな。俺ぐらいの年になるとな。気づいたらはぐれちゃう感じだったしな、昔から。楽になっちゃうよな、独りが。ここでさ、ママと下ネタ話してる方がさ」
ママが自分の胸を鷲掴みにしておどけて上下に揺らした。
「お前もくだらねぇことしか言わないからな。いてもいなくても大丈夫っつーかな」
「褒めてないじゃないすか(笑)」
「こんな場末で褒められても、なんもならねーよ。欲しいか、そんなの(笑)」
こんな会話だけして、あとはママの韓国の料理の話をぼんやり二人で聞いて過ごした。それはそれで、自分は楽しかった。
久しぶりに飲んだからか、変に酒がまわったようで、自分の中の何かをドローンで飛ばして自分を撮影しているような、おかしな感じになってしまった。数分我慢していたが、じっとしていられなくなった。
「ガメさん、すみません。なんか俺……」
「どした。おい、大丈夫かよ。タクシー呼ぶか?」
「いえ、大丈夫です……」
恥ずかしい話だが、大丈夫ではなかったのだけど、金がほとんど無かった。みっともないほどに。表面上はそんな風にふるまわないけど、自分は今日ガメさんに会えてうれしかった。だから今日だけはなんか、格好つけたかった。具合が悪い事よりも、そちらを悟られたくなくて、普通を装い店を出た。


オスローの横を歩いた。外の風にあたると、先ほどまでの倦怠感が嘘のように消え、タバコの一本でも吸いたくなったが、箱は空っぽだった。ねじって無造作に捨てる。目の前は、紫色が広かった。たくさんの、灯りが重なる。新宿バッティングセンターの前まで来た。赤い看板を見上げていると、背中が突然に何かに触れた。横にあったバッティングセンターが、いつのまにか真正面にあった。駐車場の金網をつかもうとしたが、地図看板があり、そのまま滑り落ちるようにしりもちをついた。意識を失いそうな感覚が消え、少しずつ目のピントがあって、世界は戻ってきた。バッティングセンターの看板の先のビルの上に、照明をあびるスパイダーマンの置物がある。こんな時だというのに、意識は自分の方には全く向かなかった。何度か意識が遠のいては戻ってきてを繰り返し、少しクリアな感覚が戻った。ひっかかってなかなか出てこなかったスマホがようやくポケットから出せた。その後のことはよく覚えていない。後で判明したのは自分はミキさんに電話して、ミキさんはすぐに連絡してストリートハンターズのレンを迎えにこさせたらしい。自分の記憶が戻ったのは区役所通りにある雑居ビルの一室だった。レンたちの仕事仲間の事務所に運び込んでくれたみたいなのだ。どうやって運んだのか疑問だったが、肩を借りた状態で自分で歩いたらしい。気が付くと、ソファのすぐ近くにパイプ椅子に座った茶髪の若者が座っていた。
「あっ気がつきました? ゆっくりしててくださいよ。レンくん今出てますから」
漫画雑誌から目をそらさずに興味なさげであった。黒ずんだ天井を見つめる。いまだに何がどうしたのか、よくわからない。隣の部屋から微かに笑い声が聞こえた。テレビの音のようだ。


しばらくして、レンがミキさんを連れて戻ってきた。折り畳みのパイプ椅子を一つ出して、自分の枕元に座った。
「大丈夫か」
優しい口調だったので不思議な気分だった。ミキさんは厳しい時こそ優しい人なので、少し動揺した。その後、ストリートハンターズのカズが来て何か話し込んでいた。しばらく目をつむっていた。不安だったが、帰りたくなかった。このまましばらく寝ていたい。部屋の向こうがザワザワして、挨拶する声が聴こえる。黒いドアが開いて入ってきたのは、ガメさんだった。何がどうなったのか、なぜここに来たのか、何もわからない。ガメさんも、ミキさんもお互いに低い声で「おう」と言った。横に座ったガメさんは自分の肩に手を置いて「悪かったな」と一言だけ置いた。それから長かったような短かったような時間が過ぎ、誰も言葉を発しないままガメさんは帰った。それだけのことだったのだが、自分は再び目を閉じた。口には出さない満足感が、布団のように体を覆った。


ドアの音で目が覚めた。何時なんだろう。最初にいた茶髪の男だった。
「帰ります? いや、いてもらって全然いいんすけど。言われてるんで」
「ありがとう。帰るよ」
外の空気に触れたかった。起ちあがると、意外に普通に歩けた。エレベーターで一階に降りて、消えかけの蛍光灯がちらつく長い廊下を歩いて出た。もうすぐ朝の気配がくる時間だが、外はコンビニの灯りがまだ夜を引きずっている。ビルの入口に腰かけて、部屋からガメてきたタバコをくわえ、火を点けた。このまま、この夜を終わらせていいのかわからなくて、帰る場所が消えていく。明け方の繁華街は、自分がいなくても世界は何一つ変わらないということが、わかりすぎる。


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