Shinjuku Night〜裏でも表でもない新宿徘徊録〜 #011


「久しぶり」
ベージュのカーゴパンツにペールグリーンのシャツ。薄暗くなってきて灯り始めた街のネオンに照らされた彼女は、そのような格好だったが以前より少し大人びて見えた。
「向井君、またデカくなったねー。病気してないのー?」
「久しぶりの言葉がそれかよ(笑) 四十過ぎていまだ育ち盛りなんだよ」
「ごめんごめん、久しぶりって恥ずかしいじゃん。だから、ね」
「元気だったか」
「うん」
歌舞伎町二丁目、ラブホテル街の入口。いまだホストやキャバ嬢たちが道を行き交う中、マリカと再会した。最後に会ったのはもう十数年前。そして今、彼女は母親になっていた。


一週間ほど前だった。昼食を終えて店に戻り、メールをチェックすると、見知らぬ女性の名前があった。そのメールを開封してみると、それはまさに玉手箱のような、そんな事実がそこにはあった。文中には「マリカ」の名前があった。それは、とても懐かしい名前だった。まだ《コネジ》が連日のように賑やかだったころ、マリカは店のムードメーカーだった。彼女は今はもう無い、ある風俗の有名店で働いていた。人なつっこい性格で、いつも気づくとカウンターの中に入ってマスターの手伝いなんかをして他のお客さんと楽しそうに話している姿を思い出す。見知らぬ名前はマリカの本名だった。読んでみると、なんだかマリカらしくないちょっと他人行儀な感じの文体で首をひねったが、今の自分がどう反応するのかわからないことによる緊張からそうなっているのだとなんとなくわかった。中には、勤めていた店の摘発後(浄化作戦より前だったが、何年もスルーされてきた店舗型風俗の無届営業が突然多数摘発されたのだった)、しばらくは違う店で働いていたこと、今は結婚して子供がいること、ふと思い出して職業と名前(つまり「向井 古本屋」)で検索して見つけたことが書いてあった。まぁ、みんな苗字しか知らなかったり、源氏名だったり、何してるのか知らない人ばかりだから自分しかたどりつけなかったのだろう。
8つ年下のマリカは妹のようにかわいがっていたのだ、嬉しいに決まってる。もちろん《コネジ》を通しての仲で電話番号も知らなかったし、マリカが新宿を離れているうちに自分も離れてしまったので、最後があいまいなままだったことは確かだ。彼女が今になって見つけたからって、ちょっと連絡しづらい気持ちもわからなくはない。
 携帯の番号が書いてあったので電話しようかとも思ったが、あえてメールで返事を返した。何度かやりとりしつつ、少しずつ会話がほぐれてきて、四通目のメールで「会わない?」ということになった。そのメールの最後にある店に連れて行ってほしいと書いてあった。そこは以前も、そして戻ってきた今も、いつも自分が独りで行く居酒屋だった。誰でも気に入るというわけではないが、自分にとっては居心地のいい場所。だから独りでしか来ない場所。そんな店。よく憶えてるな、こんな話。「行きたい」というなら拒むこともない。「いいよ」と返事をした。


「この店に来たいなんて物好きだな(笑)」
「いつもお店で思わせぶりに話してたじゃん。お店の名前も教えてくれないし」
ホテル街の奥にある店に着いた。お店の名前は書かない。いい感じの赤ちょうちんのある居酒屋で、店先には猫がいる。軽く撫でて店に入る。お店はたまに猫のおしっこの臭いがしたり、料理もごくごく普通だ。ホールを担当している女将さんは愛想がいいわけではないが、独りの時はさりげなく新聞を置いてくれたりとても気遣ってくれる。「食べログ」とかに書き込むような人にとってはいい店ではないかもしれないが、自分はこの店でぼんやり飲むのが好きだ。だから誰も連れてこない。焼き鳥と玉子焼きを頼んでレモンサワーで乾杯した。
「ちょっと歩いたけど懐かしいなー。大久保の家からほとんど毎日ここを歩いてたんだもん。ここは知らなかったけど」
「お店、大変だったよな。見せしめみたいな感じの摘発だったもんな」
「うん、昔から交番の近くにあるのにさぁ(笑) なんか、歌舞伎町もザワザワしてたよね、あのころ。前の年に火事あったじゃない」
「あぁ、翌日も野次馬すごかったもんな。一番街に人があふれてた。飲みに来たら警察が『止まらないで歩いてー』とかやってたもん」
「うちの店も非常口のとことかあわてていろいろどかしてたもん、急に」
「マリカ、店やめた時に《コネジ》来なくなったんだっけ?」
「うん、渋谷の店に移ったの。で、そん時に今の旦那と一緒に住み始めて、東横線の駅で。だから新宿行かなくなっちゃって。今考えるとそんなことないんだけど、そのころはそれで満たされた気分だったし」
二人同時にレモンサワーが無くなった。おかわりをする。タバコをくわえると、マリカがすっと火を点けてくれた。
「相手はなにやってる人?」
「カメラマン。たってあれよ、私のこと撮りに来て知り合ったんだもん、風俗誌の仕事で。で、一回別れたんだよね。でも狭い世界で生きてるじゃん。数年後に飲み会で偶然会っちゃって。で、そん時お互いに打ちのめされてたんだよね。なんか全部のことに後悔してて。でね、しばらくしてまた一緒に住み始めたの。風俗もやめて何もしないでいたしね。そしたら子供できてなんとなく結婚。ドラマみたいなこと、なんもないよ」


もうちょっと食べたくて、焼き鳥をおかわりした。いつもならいろんなものを食べたいのだが、今日はなぜかこれだけを食べていたかった。
「でも、わたし良かったなーって思ってる。隠さなくてよかったじゃん、仕事のこと。ちゃーんと自分が歩いてきたままっていうか、それでママになれたんだもん。これからなんかあるかもしれないけどさ、今はいいからさ。後の事考えてもしかたないし」
「そっか。まぁ俺もたいした経験無いしあれこれ言えないけど、今のマリカの顔見てたら『よかった』って思うけどな。じゃ、今、育児だけ?」
「あっ、聞いて聞いてー! 今、実家近いから娘はあずかってもらってね、週3回バイトしてるの。友達の旦那さんがはじめたパン屋さんで。すごい人気なのー。でね、近所のおじいちゃんとかおばあちゃんの家にもね、デリバリーしてるの。それをね、私が自転車で持ってくの。ホント楽しいんだぁー。ほーんとおいしいんだから」
「へぇ、よかったじゃん、いい仕事見つかって」
《コネジ》の時のマリカって、本気で笑ってなかったんだな。今頃そんなこと思うなんてなんだか不思議な気分だ。
「なんか、シメに食うか?」
「うーん、じゃあさ、《若月》連れてってよ」
「えっ、マリカ《若月》なんて行くんだ?」
「なに言ってるの、向井君が昔連れてってくれたんじゃないよ」
「そうだっけ(笑) まぁいいや、行くか」


店を出て再びホテル街を抜けて花道通りに出る。途中、マリカの働いていた店の入っていたビルの前で立ち止まる。そこからは店であった愉快な出来事を聞きながら大ガードを抜けて思い出横丁に着いた。《若月》はラーメン店であるが、入口側には鉄板があり、焼きそばもまた名物なのだ。太い自家製麺が有名で、あちこち有名店で食べてはみたものの結局はここに戻ってきてしまう、自分にとってそんな店である。ドアのないカウンタースタイルも心地よい。マリカはラーメン、自分は焼きそば大盛りにした。
「いまだに500円でお釣りくるんだね」
横丁を通り抜ける人の話し声が、たまに耳をかすめる。ささっと女将さんが炒めて、焼きそばが先に出てきた。二人でつまむ。
「おいしー」
ラーメンも出てきて、あっちこっちと手を出し合って食べた。麺を飲み込む心地よさがあるんだな、このラーメンは。
「なんだか、ずっとここに居た気になっちゃうね」
「そうな。俺も新宿戻ってまだ数か月だけど、そういう気になっちゃう時あるもん」
「向井君はなんで新宿離れたの?」
「あぁ。いや、違う場所にさ、なんだかすごくいいものを見つけたような気がしたんだぁ、あのころ。自分の仕事ともつながるね、とてもいい人たちに出会えたんだよね。でも、結局さ、ずっとそこにいたら居場所なかったんだよ。あっ、自分の問題でね。で、まぁ、またね」
あのころは変われるような気がしていたんだよな。そんなことを考えながら食べていたら独り気分で内向きになっていた。でも、横のマリカもまた、夢中で麺をすすっていた。
「今の向井君、楽しそうだね」
「バカ、全然だよ。簡単に言うなよ」
「ふーん」
「昔、お前言ってたじゃん、全部自分が悪く思えるって。そんな感じ。結局さ、プラプラして、コネジ行って、眠くなるの待つだけ。それだけだよ、毎日」
その言葉にマリカは返事をせず、スープをレンゲに入れたり落としたりさせていた。


店を出て、そのまま新宿駅の西口に来た。
「また来るよ」
少し首をかたむけて、口元だけ柔らかくした笑顔でマリカがそう言った。今日一日のことを思い出す。表情を変えずにしばらく向かい合った。先ほどの、本当にうれしそうに話していた表情を思い出した。
「いや、もう来るなよ。わかるよな。なんか、つらいことでもあって、思い出しちゃったんだろ。だったらダメだよ、マジで」
「……うん」
「それ、超えたらさ、また来いよ。その、うまいパン、もって。コネジのみんなに食わせてやれよ。ミキさんもレナちゃんもいるから、まだ」
「うん」
「でも、よかったな、いい場所に落ち着いて」
「向井君、こっちにも来てよ。ね!」
「あぁ、いつか」
すーっと歩いて行って振り返ったマリカが、両手を大きく振った。こちらは片手で軽く返した。そのまま自分は《コネジ》に向かった。ここからはいつもの、バスターミナルの灯りが、潰れそうな夜に。まだ続く、日々に。

◆歌舞伎町地図
http://www.d-kabukicho.com/kabukicho-map.html
◆若月(思い出横丁)
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13000758/