昨日、2014年度後半戦に入った26回目(プレ開催をいれたら27回目)の「鬼子母神通り みちくさ市」が終わりました。心配していた天気にも恵まれ、たくさんのお客様が訪れてくださりました。昨年、少し無理して2日間にしたり、トークを4本にしたりあれこれやりましたが、地味ではありましたが、多少イベントに安定感が生まれたような気がします。今年に入ってから、自分たちの思いを離れて勝手に動いているような気がする時が結構あります。


昨年あれこれ動いてみて、いろんなことを考えさせられました。自分たちにはなんというか、本当に力が無いことを自覚しながら、なんとかお客さんが来てくれるものを作ろうともがいてきましたが、ここに来て考えがかなり変わりました。やっぱり自分には場所のホントに最初の一歩しか作れないんだなぁと。それでもイベントがなんとかなっているのは、出店者の方々が自分たちの思惑とかを超えたところでどんどん「みちくさ市」を色づけてくれているからなのだと素直に思いました。出店者の方とお客様の間で自分たちの知らない「みちくさ市」がどんどん生まれているのだと。なんだかキレイごとのようなこと言っていますが、実感なんだからしょうがないです。もっともっとシンプルでいいんだな、と。


これは前からの自分の思いなのですが、よく批判される「内輪受け」という言葉ですが、それって数で測れないと思うのです。今の世の中、「数万人の内輪受け」ということだってあるのだと思います。正直、自分のやることだって、実際にはそういう枠の中でしかないと思ってます。ただし、そういうことに自覚があるのと無いということにはかなり差があると思います。外に向けて何かを投げるって、本当に難しいし、やるやらないの話の前にそのやり方に気付ける方が稀なのではないかと。そもそも自分の未熟さの出口も見えてないですけど。


みちくさ市」に「古本」の文字が入っていないのは、面白いことならなんであっても後からどんどん「足すこと」ができるように、場所のイメージがそこで終わらないようにということで決めました。開始当初はなかったブングテンさんやジモトワカゾー野菜市さんなども含め、これからも頭の中で考えられる範囲の「本」だけじゃないことができたらいいな、とは思ってます。それはつまり、いろんな考えの人が「ゆるい感じの共通したなにか」が胸にあれば誰もがいられる場所のことです。自分はそう言いながら、それを作るために寛容さを失っていた時もあり、たくさんの後悔をしてきました。だから、少しずつ生まれ始めているように感じているここ最近の自分の力なんか関係なく勝手に動いていく「何か」を今度こそは大事にしたいのです。


物事って、あんまり熱心に前向きに進めるだけじゃダメなんだなぁと。後ろ向きにならないでネガティブな感情を飼いならして持ち続けること、それを持って仕事のことを進める力に変えていくこと。古本屋の仕事に全く関係ない「Shinjuku Night」を書いているのは、そんなことのためだったりします。できるかどうか、そんなことはわからないんだけど、ダメはダメなりにでも、冴えてるときはキリッとでも、いろんな角度から見たり感じたりできるよう、今日もまた新宿の夜中に、酒を飲むのであります。


恥ずかしいですが最後に一言。近い人も、そうでない人も、いつも皆様、本当にありがとうございます。たぶんこれからもたくさん間違ってしまうような気がしますが、よろしくお願いいたします。