Shinjuku Night〜裏でも表でもない新宿徘徊録〜 #012


 花園神社の前にかかるころ、顔全体に湿り気を感じた。霧雨だった。反射的にちっぽけな副都心線の入口に逃げ込んだのだが、街灯に映る雨の線を見て、これぐらいなら濡れてもいいな、と思い再び歩き始めた。ただ、西口方面に行こうと思っていたのだが、それは面倒になって近場で飲むことにした。信号をふたつ渡り、伊勢丹明治通り向かい側の末廣亭エリアに来た。明治通り沿いの映画館がいくつか消え、「H&M」なんかがあったりと小さなころの記憶で言えばこのあたりの泥臭い感じの雰囲気は少し遠くなった。映画館のCMでも流れていた「サウナレインボー」も、あの虹色のパネルがはめこまれたビルの外観もなんだか懐かしい。
 末廣亭のある末広通りを二本越え、スタバを超えると少し広めの要通りに出る。この辺りは会社勤めの方々が5〜6人ぐらいで店を探して歩いていることも多く、その賑やかな雰囲気を避けて、つい隅っこを歩いてしまう。店もキレイな建物にオシャレな雰囲気のバーあり、昔ながらの雑居ビルに得体の知れない看板があったりと雑然としている。小さいころ伊勢丹周辺こそが「新宿」だったこともあり、このあたりもまた面影を感じてはいるのだが。
 実のところ、それほどこのエリアに来ないのは自分の過去にも原因があって、かつてこの付近で、ある古本屋さんの結婚式の二次会があり、結婚式から先輩方と移動してきたのだが、まだ時間があるということで、このエリアの雑居ビルにある雀荘で時間をつぶすことになった。まわりが全員その筋の方々ばかりだったことを鮮明に覚えている。その時、自分は大きな役をテンパっていたので強気に出たら大三元を振り込んでしまったのである。よく考えると自分はあの時に麻雀をやめたのであった。そんなどうでもいいことに今でも少し囚われて、関係ない街の雰囲気にケチをつけているのだからセコい男だと自分でも思う。雨は降っているのか降っていないのかよくわからないぐらいのものに変わっていたのだが、塵も積もればなんとやら、さすがに早くどこかで落ち着きたくなっていた。


ちょうど、「本の雑誌」の広告などでもおなじみの《池林房》のある通りまで来たところで(夜の池林房の外観はホント美しい)、角の居酒屋《海老忠》の焼き場の大将と目が合った。あぁ、ここがいい。自分はなんとなく同じ店に連続して行かないことにしている。別に何かこだわりとかがあるわけでなく、金もない、時間もない、さらには独り飲みの多い自分にはただこれだけが旅行とかそういうものに近いので、ちょっといつもと違う雰囲気を味わいたいだけ。慣れない場所を観察しながら時間をつぶす、そんな他人にはどうでもいい自分の楽しみなのである。この店もまた、前回の訪問から間が空いていた。
焼き場の大将に軽く目礼して入口に向かうと、女将さんがドアを開け「いらっしゃい」と迎えてくれた。店内には50歳手前ぐらいの男性が一人。少ない機会なのに、たまにこの店で一緒になる方だった。軽く目礼してひとつ席を空けて座った。いつもながらに奥にある妙に高い位置にある小上がりも気になるが、とりあえずホイスを頼む。このホッピーのような飲み物はなんなんだろ。”ハイボールの素”とあってウイスキーの代用品みたいなものとしてできたらしいが、語れるほどの薀蓄はない。かつて中野の《田原坂》という居酒屋で出会って以来、飲みやすさが忘れられず、あれば頼む。この店も確かホイスがあると聞いて訪れたのがはじめではなかったか。ホイスが出てくる前に簡単な小鉢とスープが出てきた。この店はまずこの鳥スープが出てくるのである。いつもこのスープを胃に入れて、優しくノックしたところでヨーイドンという趣で。出てきたホイスをグビッと一口、あぁ、思ったより飲んでしまってグラスのラインがずいぶん下がった。つまみはいつも決まっている。ささみを薄く切って円形に並べられた「鳥刺し」と4本セットの「焼き鳥」。焼き鳥は正肉、レバー、つくねがあって、ミックスにもしてくれるのだが、自分はこの店では正肉が一番好きなので、それだけ4本いただく。タレで。
 軽く横の男性に「タバコいいですか?」と聞いてみた。「はい。ま、お互い自由に楽しく行きましょ、ね」と軽く答えてくれた。好きだなぁ、この人。今日は先日一緒に飲んだ人からもらったタバコで、いつもよりきつめのものだった。ちょっと鼻がツンとした。独りの時に気楽な感じで飲めるような人間でありたいと思い続けてきたが、やはりメソメソ体質はそうは変わらない。上にある蓋はなかなか開かないというのに、下にある底はひたすら抜けていくのである。今日は今日で最近あった、人に思いが伝わらないこと、誤解を受ける事、そんなことについて考えた。本当にありふれた、どこにでもあるようなことなのだ。それでもチープなものにあえて身を委ねたくなることがるように、あえて沈んで、傷つけた気になって救われたりもする。そういう恥ずかしさを、口で串からひとつずつ焼き鳥を抜きながら、現実に戻していく。というと大げさだ、おいしくて忘れていく。おいしいって、幸せだ。鳥刺しにつけすぎた、醤油に溶けきらなかったわさびもまた、いいやつだ。


グイッとホイスに口をつけた時に、携帯のメール着信音が鳴った。
「ハハキトク ミヤゲアルカラスグカエレ」
《コネジ》の常連、”チャラい銀行員”ユウキさんからのメールだった。客が自分独りきりの時に、だいたい自分にこういうメールを送ってくるのである。とりあえずそのままにしておく。


若いカップルが二人入ってきた。まだ二十代だろうか。一番奥の、折り返しのカウンターに座った。二人は通常よりもほんの少しだけ、椅子の距離を縮めて座り、瓶ビールを頼んだ。その後も出てきた焼き鳥を静かに、それでいてたまに発する「おいしいね」などの言葉が場所の雰囲気を崩さず、むしろ支えていた。このような、まぁ実際のところは知らないけれど、自分から見た幸せな風景にいちいち負の反応をしていたころが懐かしい。今でも人の幸せを受け入れられるようになったわけでなし、あいもかわらず嫉妬心の塊なのではあるが、なんでなのだろうか。あぁ、今日はタバコが短くなるのが早い気がする。
 「あっ!」という声とほぼ同時に女の子のほうがグラスを倒した。ほとんど入っていなかったので、ちょびっとこちらに流れてきただけだった。
「ごめんなさい!」
なんだかとてつもないことをしてしまった、というような顔をしている。
「大丈夫、大丈夫、ぬれてないよ」
「ホントごめんなさい……」
「こんなんでそんなに謝られたらこっちも困っちゃう(笑) そんなことより、ここは初めて?」
「はい、はじめてです」男の子が答えた。
聞くと彼女は某デパート勤務で、彼はフリーター。今日は仕事終わりの彼女を迎えがてら飲みに来たそうだ。
「いつもは近くの《T》に行くんですけど今日満員で。ブラブラしててここに」
「ふーん、いい相方いていいね。シブいとこ付き合ってくれるこんなかわいい子なかなかいないじゃん、仲もよさそうで、さ」
「いや、普段、怒られっぱなしすけどね(笑)」
「今度、一緒に住むことにしたんですよー、私たち。彼、貧乏だから生活費の節約にって(笑)」
「ハハ、言われちゃった。焦ってはいるんすけどねー、これでも」
「こき使ってやるー(笑)」


いい感じになってきたのにまたユウキさんからのメールが届く。
「ウサギは寂しいと死んじゃうよ。僕も死んじゃうかもよ」
なんだよそれ……。また放置する。


「わたしも今はそこそこのお給料もらってるけど、これからはわからないですもーん。彼にもがんばってもらわないと」
「あー、俺もなんかわかりやすい目標がほしいなぁー。あっ、それ言っていつも先輩に怒られるんだ……」
「バカ(笑)」
とてもしっかりしているように見えたけど、いいな、男の子だな(笑)横の男性も、うっすら笑みを浮かべていた。自分もこの二人みたいに、少し前に大事だった人に、この「場所」をちゃんと伝えればよかったなぁと思う。独りだけの逃げ場みたいじゃなくて、共に楽しめばよかったと思う。って、後悔って本当に意味ねぇなぁ、クソだ。気づいたら、飽きずに五杯もホイスを飲んでいた。タバコも、そして財布の中身も枯渇してきた。これが一番生々しい感覚だな、ほんと。
「またどこかで」
二人には少し大げさに手を振って、隣の男性には軽く目礼して店を出た。うん、うまかった。


すっかり雨の気配もなくなって、靖国通りを駅方面に歩いていたら、再びメールが届く。
「暇なんです。来てください」
なぜか突然謙虚な感じのメールに。なんだか、さっきまでのネタっぽいのより、全然おかしかった。靖国通りのローソンで、ユウキさんが好きなプレミアムロールケーキを買った。そのまま、《コネジ》のある区役所通りを曲がる。区役所通りは今日もなんだかゴミゴミしていて、「区役所」なんておかたい名前が付くのに夜の香りがパンパンに充満していて。今日も、外帰りに一杯の水を飲むがごとく当たり前に、いくつもの後悔が殺されていく。
 あっ、また雨だ。道端のキャッチ達が散っていく。あぁ、あの二人、ちゃんと帰れたかな。さっきの二人のことは、ユウキさんには内緒にしておこう。明日には忘れてるかもしれないけど、また独りの時間に前向きにぼんやりできるよう、自分のなかにとっておこう。

新宿末廣亭
http://www.suehirotei.com/
海老忠新宿三丁目末廣亭エリア)
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13011913/