きれいごとを嫌いでいられるということ

もう十年以上前、よく新宿で飲んでいたころに知り合いだったNさんが亡くなったと聞いた。もう五年近く前らしい。自分と三つくらいしか違わなかったらかなり若くして亡くなったことになる。誰も詳細は知らず、みんなどこからか聞いただけということのようだった。


Nさんが住んでいたのは北新宿の裏路地に会った木造のアパートで、本当に隣の音が駄々漏れのようなオンボロな建物だった。何回か飲みに行ったが落ち着かなく、すぐに帰ることが多かった。仏様のように温厚で、一度も感情が荒ぶるところを見たことが無かった。またNさんはちょっと「いい人」すぎてまわりから少し疎まれていたところもあった。自分も「夢」とか「希望」とか、そういう言葉を生のまま出されるのがどうも苦手だったので、着かず離れずの状態だったのが正直なところだった。


いくつかの夜を思い出して、その話を聞いてから、記憶を頼りにかつてのアパートを探しに北新宿の住宅街へ行ってみた。なんとなくこの辺というのはわかるのだけど、どうしても思い出せず見つからなかった。Nさんは帰り、いつも小滝橋通りまで送ってくれた。その時よく、急に泣き出すことがあった。酔っぱらってんなぁ、ぐらいに思ってしかいなかったが、今この道を歩いていると考えてしまう。あの時、Nさん、本当につらかったんじゃないかな。Nさんはいい人だったり、きれいごとが好きだったんじゃなくて、切実な祈りみたいなものだったのではないだろうか。きれいごとを嫌いでいられる。それこそがささやかな幸せというものなのかもしれない。