『昔日の客』の向こうにいた過去の自分

今年、ちょっとした衝撃を受けたことと言えば、山王書房関口良雄さんの『昔日の客』の復刊だ。古本屋の書いた本として、ずっと読みたいと思ってはいたものの、機会がなかった。うちは父親のころからいわゆる「本の本」はなるべく集めるようにしているのだが、それでもなかなか三茶書房版『昔日の客』は入荷してこない本だった。自分が古本屋になってまもなく二十年になるが、この本を売ったことがあるのは一度だけである。それも、買ってきて未整理のまま置いておいたところ、常連のお客さんが見つけて欲しいというので、読むこともないままに手放してしまったのだった。そのような本が、夏葉社さんから復刊するという。少し浮かれた気分で発売を待ち、ある日、古書往来座で購入した。鮮やかな緑色の布装は、元版とはまた違った、愛着あるたたずまいだった。その日の夜から、少しずつ読み始めた。


自分は長いこと存在だけ知って読めない状態が続いていたせいか、勝手なイメージを作っていた。もっと、文人との交流が気まじめな文体で綴られたものなのかと思っていた。しかしながら、一番最初に収録されている正宗白鳥先生訪問記からして本への愛着を感じさせながら、なんともいえないユーモアが漂う文章で、すぐに世界へ入り込まされてしまった。酔って唄い出すという行為は、まさに自分が楽しく見てきた古書店主の素顔そのままであった。本や文学への愛情も、それを「商売」としているものの楽しさや悲しさを通してのものとなっており、なんとなく慣れっこになって不満ばかり感じている自分には「気付かされる」言葉が多く、ハッとさせられた。「古本」という一篇の出だしはこうである。

私は店を閉めたあとの、電灯を消した暗い土間の椅子に坐り、商売ものの古本がぎっしりつまった棚をながめるのが好きである。

自分も好きなので、よくわかる。閉じられた入口の中の古本屋という空間は、とても居心地がいい。なぜかはわからないが、本も営業中とは違う顔に見える。こんな当たり前に思っているようなことも、古本屋の特権なのだ、と思うと、普段の肩のコリがほぐれたように少しホッとした気分にもなった。


しかしながら自分は、関口さんや出てくる文人の方々がすでに亡くなっていることもあり、共感を感じながらもどこか遠くの、それほどの昔ではないが「歴史的」な感覚で読んでいた。そして、読んでいるうちに、面白いが故に古本屋としての自分が引き離されているように思えてきてしまい、複雑な感情を持ったりもした。読み進めて、「大山蓮華の花」という一篇を読み、なにかとても心に沁みるものを感じた。いつも決まった日に季節の花を持ってきてくれていたお客さんが亡くなったことを知り、夫婦でお悔みに行く話である。自分は、有名な文人が出てくる一篇よりも、無名のお客さんが出てくる話が好きなようだった。そして、これを読んで、松川さんのことを思い出していた。


今から十五年前ぐらいだったろうか、歩いて数分の近所に松川さんは住んでいた。いつもベレー帽をかぶっているおじいちゃんで、何がきっかけだか覚えていないが、百円均一を買うついでに言葉を交わすようになり、そのうち毎日のように本を買いがてら、おやつを持ってきてくれるようになった。それがいつもそのあたりで買えないようなお菓子で、毎日楽しみだった。そのうち、自宅に遊びに行くようになり、実の孫のように可愛がってもらっていた。上野あたりをブラブラしたり、映画を見に行ったりもした。しかしながら、自分も遊び盛りの時であり、休日を松川さんと過ごすことも多くなく、いつも松川さんに「じじいが来て迷惑なんでしょ!」とちょっと冗談で言われたりもしたが、今思えばもっと甘えておけばよかった。姿を見せなくなったと思ったら、ある日突然亡くなったと知らされた。母親と共にお悔みにうかがって、その帰りに自分は路上で泣いた。心の奥に沈んでいた記憶が、この一篇を読んで浮かび上がってきた。


また、「遠いところへ」という一篇にも記憶を刺激された。そこに横光利一の研究などで知られる保昌正夫さんの名前があったからだ。七年ほど前になるだろうか、保昌さんに自分は励まされたのだった。といっても自分はお会いしたことはないのである。かつてEDIという出版もしていたデザイン事務所の主である松本八郎さんに、私は同人誌「サンパン」に誘っていただき、文章を書いていたことがあった。保昌さんもまた、同人だった。松本さんは文学好きでもないのに文章を書いている自分のイレギュラーな感じを面白く思って起用してくれたようだった。ある日、松本さんが「保昌さんが褒めてたよ、君のこと」と教えてくれた。単純に、うれしかった。そのころ、千葉の石橋さんと言う方が作っていた胡蝶掌本という豆本に、古書目録に書いていた文章をまとめてもらったところであった(後に「早稲田古本屋日録」になるもの)。その豆本を保昌さんに送ったところ、わざわざ御礼のハガキをいただいたのだ。その一ヶ月後、保昌さんは亡くなった。当時の自分がこのハガキにどれだけ励まされたことか、簡単に書くことはできない。でも、『昔日の客』のなかに、自分につながるキーワードが出てきて、世界が身近に感じられてうれしかった。


あっ、と思い出したように本棚から、近代文学館で開かれた「保昌正夫さんを偲ぶ会」で配られた冊子『暮れの本屋めぐり 保昌正夫〈文学館〉文集』を取りだして開いてみると、「「関口良雄氏寄贈」の本」という一篇があった。1977年の「現代の作家300人展」の図録に寄稿されたものである。「去年の夏、十二年ぶりに、関口さんは「関口良雄氏寄贈」の本たちに会いたくなって、館を訪れたらしい。」とある。年譜で見ると、関口さんが亡くなる一年前のことだ。関口さんの本で保昌さんに会い、保昌さんの文章で関口さんに会えた。


自分は、『昔日の客』を読んで、自分の店の「昔日の客」に会い、過去の自分にも会えた。古本屋は、お客さんに育ててもらう面が多い。いつのまにか、こんな自分にもそういう人がたくさんいたんだ。今後もきっと、ただ楽しむために、または古本屋としての自分を確認するため、何度でも読み返すのだと思う。改めて思う。本の素晴らしさを。

昔日の客

昔日の客