Shinjuku Night 〜裏でも表でもない新宿徘徊録〜 #016


 街の地面が白い。雨上がりの新宿は降り注ぐ光を水の鏡が受け止めて色を付けている。しかしながらそれは美しいものでもなんでもなく、近づけばタバコの吸い殻が砕け散って醜態をさらし水中花のように浮いており、少しツンと鼻につく臭いとすれ違う。とはいえ、ほぼ徹夜明けで仕事を終えてきた身としてはすべてがどうでもよかった。そういう水たまりをわざと蹴飛ばして散らすように歩く。

 
今日は街なかの喧騒に触れたくなくて、直接にBAR《コネジ》に来た。最近は歌舞伎町で独り飲みで行き場を失った時は再会したストリートハンターズの事務所で過ごすことが多く、ここに来るのは久しぶりだった。エレベーターを待つ時間が長く感じて、意味もなくボタンを連打する。入る時にすれ違ったキャバ嬢の残り香につつまれて、エレベータの重力に揺られる。


「いらっしゃい。あれ、久しぶりだねー。また新宿から消えちゃったかと思ったよ」
「それ、今でもちょっと気にしてるんだけど……」
「ハハーッ、いや、知ってる(笑)」
「ひでぇ(笑)」
「ジントニでいいね」
ボックス席には久しぶりのチャラ系銀行員のユウキさんがムラキさん、マツダさんといつものトリオで飲んでいたが、今日はあのテンションについていけない。「今日はカウンターで寝るから」とテキトーなことを言って逃げて座る。いつもの悪いクセで、出てきたジントニを野暮にグビグビ飲んですぐに3分の1ぐらいにしてしまった。置いたグラスの音で起きたか、カウンターの端にうつぶせで寝ていた男性がムクリと顔を見せた。
「あっ、ムクさん、久しぶりっす」
「えっ、向井君? へーっ、生きてたのか」
「ムクさん、見た目変わらないけど、疲れ切った感出過ぎ(笑)」
「お互い様、じゃないの。向井君は腹回りに死相が出てる」


なんでそう呼ばれてるのかわからないムクさんとは新宿に戻ってから初めての対面だった。ムクさんはいわゆるゲイの方なんだけど、隠してるわけで無し、実に普通のおじさまである。テレビのなかの人のようにわかりやすい感じで何かするわけでなく、2丁目に行くというわけでもない。理解を示す人が増えてきた今でも、そんな当たり前のことが通じない世間もまた普通なのだなと思う。ムクさんは《コネジ》ではそういう話題を話さないし、自分にとってはどこにでもいるおじさん、である。
おとなげない人が多く、どうでもいいことでケンカが日常的におこるこの店で、仲裁人になるのはいつもムクさんだった。コワモテのミキさんでさえ、ムクさんには一目おいているようだし、まぁ確かに説得力があるのだ、雰囲気に。


ユウキさんが後ろから茶々を入れた。
「ムクちゃんは俺たちの事バカにしてるんだもんなぁ。仲良くしたいのになぁー。なにいっても無視だもんなー」


いつもながらに面倒くさい感じに酔っている。
「言われたい放題すね(笑)」
「だって僕は独りで飲みたくて来てるんだもん」
「あっ、自分もそうなんすけど、なんか巻きこまれちゃうんすよねぇ」
「向井君は寂しがりのオーラ出してるからでしょ。全然違うよ、君はかまってちゃん」
「嫌な言い方すんなぁ」


ニヤニヤしながらマスターはおかわりを頼んでいないジントニを前に置いた。よく考えればこの店に出入りするようになってから、ムクさんとこんなに話したのは初めてかもしれなかった。もう一度、ムクさんのほうに目をやると、すでにそこには壁ができていて、話しかけづらい雰囲気だった。それでも会話には温度というものがあり、自分はその仄かな残りの種で飲むことができた。マスターがスマホyoutubeで何かを見てクスクス笑っている。そんな景色が、とても愉快に思えた。グラスの水滴を指で拭く。後ろから、ユウキさんのイビキが聴こえる。


親指でタバコのボックスのふたを開けたら、空になっていた。
「マスター、今日タバコ置いてる?」
「ないでーす。なんにもなーい」目線をスマホから離さずに答える。
「ひでー店」
「はーい、ひでー店でーす」
いつの間にか椅子の下に落ちていた上着を着て外に出る。エレベーターは下に行ったばかりだった。普段あまり見ない同じフロアの店の看板を読んでみる。昭和的な響きを楽しんでいると、ふと肩をたたかれた。ムクさんだった。
「僕も切らしちゃった。お付き合いさせていただきます」


区役所通りはまばらな人通りだった。ワイングラスのようなイルミネーションの下には、仕事をもてあました気怠さが人の形をしていくつもある。いつも買いに行くコンビニに向かおうとすると、ムクさんが足を止めた。
「ちょっとさ、散歩しない? 暖房効きすぎなんだよ、あの店。交番の並びにあるでしょ、タバコ屋。あそこまでどうよ」
「いや、別にいいすけど」
少し歩いて風林会館を曲がり花道通りに入る。
「キャッチも大変そうだよね。客はほとんどいなくて見渡す限りキャッチだもんね」
「深夜でもずっとザワザワしてたころが懐かしいすね。このあたり、凄かったもんなぁ」
なんだかタクシーが詰まっている。道の真ん中でホストっぽい男が酔っぱらって座りこんでしまったようだった。周りから野次馬が集まってきて、歩道もまた詰まった。怒号も飛び交っているが、夜の歌舞伎町では誰もそんなこと気にせず、覇気なく見つめている。
「ムクさん、生まれどこすか?」
別に聞きたい訳でも無かったのだが、今ここの何一つ意味のない停滞のなか黙っているのが嫌だった。それだけだった。
「東京だよ。町田、だけど」
二人で、ホストがズラリ並んだ看板を見上げている。しかし、女の写真であふれていたこの街が男の写真ばかりになったのはいつなんだろうか。看板の上の電灯がひとつ消えている。ふとムクさんと目が合った。
「オヤジが具合悪くてね。実家にすぐに行けるのもねぇ。独り身でいることを言われるとさ、嫌になる」
「ムクさん、そういうの気にするんすか」
「当たり前じゃん。なんだと思ってるんだよ」
「いや、いつも独りを通してるっていうか。強い人だなーって思ってるから」
「だったら行かないよ、あんな店」


気づくと警官が来て男はかかえられて端に運ばれていた。車が動き出して、いつのまにか道は夜中の景色を取り戻していた。
夜中に動き出すタバコ屋でお金を落とし、来た道を引き返す。
「向井君、結婚しないの?」
「まぁ、しないっつーか、できないっつーか」
「僕ら、どうなるんだろな。気づいたら、最後とか、考えちゃうっていうかさ。息詰まるっていうかさ。実家帰るとそんなこと考えちゃう」
「自分なんか、一か月後どうなるかって感じだから、よく神社で一か月分だけのお参りしてきますよ。とりあえず今月は、みたいな(笑)」


道の場所いくつかに、白い息があがる。明日は雪になるかもしれないとさっきマスターが言っていた。タバコを握った指先が少し硬い。
「コネジのフロアがアパートでさ、みんな住んでたらさ、なんか気楽でいいよねぇ。気も使わず、ゆるい感じでいつも一緒っつーかね」
「えーっ、ムクさんもそれ言うんだぁ」
「えっ、なんで?」
「いや、なんかこう、独りもんの将来談義になるとみんな同じこと言うなぁって。トキワ荘みたいな。まぁ、俺も思うぐらいはしますけど」
「なんだよ、恥ずかしいじゃん、そういう言い方、やだなぁ」
「さっきムクさん、俺にイジワル言ったじゃないすかー。仕返しすよー」
「でもさ。そう思うんだ、なんか」


地下の《つるとんたん》からなにやら大勢の男女が出てきて足が止まる。このあたりは、夜が交差する。終える人、始まる人、行き場を探す人。嗅ぎたくない香水のにおいを無理やり着せられうんざりしながら、ムクさんに追いつく。
「10年後、自分がどこにいるか、わからんしょ。だからさ、口にしちゃうんだよ、そういうこと。それぐらいしかさ、人に話せないよ」
「俺は10年間、コネジから消えてたけど、あんまり変わってなかったですよ」
「変わってるよ。それは周りじゃない。向井君が変われなかっただけだよ」
「はぁ。そんなんもんすかねぇ」


タバコ屋につくとそこには誰もいない。「すみませーん」と大きな声で奥に声を投げると、おばちゃんが出てきた。自分は財布の中にある10円玉をとりあえず全部出し、使えるだけ使った。置かれた箱を無造作にポケットにつっこんで、区役所通りに戻ろうとした。しかし、ムクさんが見当たらない。交番あたりや東宝ビルの横も探すがいない。さっきまで聴こえていなかった、街の声が聴こえる。
しょうがなくぼんやり引き返した。結局出会えずにコネジまで戻ってきてしまった。店にはマスターしかおらず、興味なさそうに「おかえりー」と言ったまま何か雑誌をめくっている。さっきの席に座る。ムクさんが座っていたカウンターには、まだ半分ほど残っているタバコのBOXがあった。


それから数週間後、深夜に訪れた時にムクさんがいつものカウンターの端っこで飲んでいた。先日の話をしようと思ったが、いつもの閉じた雰囲気だったので、軽く目礼しただけで、気持ちだけすれ違った。1時間後、タバコが切れたが今日は帰ることにした。